あやのちゃんの持ち物

藤原です。

稽古場に着くと、みずきくんがロビーでノートPCを開いて腕組みしていたので、声をかけずに通り過ぎました。
部屋で準備していると、すぐに德ちゃんとあやのちゃんが現れ、「ロビーにみずきさんがいたんであいさつしたんですが、『今、真剣にソリティアしてるから話しかけないでくれ』って言われました」と、何とも言えない表情をしていました。
ソリティアに真剣に取り組む人を私は初めて知り、しかもけっこう身近にいたことに驚きました。

ソリティアが一段落したのか、みずきくんが室内に来て、「あやのちゃん、パン持ってない?」と言いました。「ちょっと、おなかすいちゃって」
「今、食べられる物、持ってません」と、あやのちゃんは言いました。
「そっか。じゃあ充電器持ってない?」と、みずきくんが言いました。
あやのちゃんは「え?」と言いました。「じゃあって何ですか?」
「スマホの充電がなくって」
「充電器も持ってません」
「そっか」
「私、充電器持ってますよ」と、德ちゃんがみずきくんに、充電器を貸してあげました。
「ありがとう。えっと、コンセント、コンセント……あやのちゃん、コンセント持ってない?」
「は?」
「だから、充電したいから、コンセントが必要なんだよね」
「持ってません」

しばらくして、飯野さんが現れました。仕事が終わってから来たようで、へろへろしていました。「あやのちゃん、おやつ持ってない?」
「だから私は今日、食べられる物は持ってないんです」
「いや、私は初耳だから」
みずきくんが飯野さんに何やら書類を渡し、「これ、団体代表の印鑑が必要なんだけど、あやのちゃん、藤原家の印鑑持ってない?」
「みんな、私を何だと思ってるんですか?」
逆にもう、あやのちゃんは先に、持っている物を提示した方がいいんじゃないか、と私は思い始めました。

「印鑑は持ってるから、大丈夫」と、飯野さんが印鑑を取り出しました。「私、藤原印も、飯野印も、両方持ち歩いてる」
「へえ」
「いつでもお金が受け取れるようにね。達郎も持ち歩いてるよ。ね?」と話を振られたので、私も実印と朱肉を取り出しました。
「俺も持ってる」と、みずきくん。
「私も持ってます」と、德ちゃんもカバンを漁り始めました。
「あ、そういうものなんですね」と、あやのちゃんも納得の表情でした。
が、カバンをいくら漁っても、德ちゃんの印鑑は出てこず、「あれ、おかしいな……印鑑なくしたとかあり得ないんだけど……」と焦っていました。「あやのちゃん、私の印鑑……」
「持ってません」

書類の内容を確認し、印鑑をついた所で、飯野さんが、「この書類、達郎が書いた?」と言いました。
私は書いていなかったので、「いいや、書いてない」と言いました。
「俺が書いた」と、みずきくんが言いました。
「あぁ、やっぱり」と、飯野さんが言いました。「いや、達郎にしては字が綺麗すぎるし、みずきにしては汚いから、どっちかなって思って」
「それ、真剣にソリティアしてる合間に書いたから」
「印鑑が必要な書類、ソリティアの合間に書かないで」
「けど、真剣なソリティアでしたよ?」と、德ちゃんが注釈を入れました。
「何、真剣なソリティアって。真剣なソリティアならなおのこと、合間に書類書かないで」

私の字は、みずきくんがソリティアの合間に書いた字より汚いそうです。
自覚はあります。
実は私は小学生のころ、硬筆を習っていて、段位まで取得しているのです。
硬筆というのは、毛筆のえんぴつ版なのですが、「級」から「段」に上がったあたりから、いわゆる読みやすい「綺麗な」字から、「崩す」字にシフトして行き、なんなら必要な線すら書かず、文字のリズムで字を「感じ」させるような、芸術性を重視した書き方になって行くのです。小学生の頃の私に硬筆の芸術性は理解できず、ただ先生の言われるがままに、崩した字を書いていたのですが、中学に上がるタイミングで硬筆自体をすっぱりやめてしまい、その後、崩した字に手癖の加わった、非常に読みづらい字を確立し、今に至るのでした。
「あやのちゃん、俺に、読みやすい字を書くスキルを授けてくれない?」
「パソコン使ってください」

そして稽古が始まり、この日からウォーミングアップのゲームはやめ、あやのちゃん指導の元、発声練習を行うことにしました。
何が言いたいのかというと、あやのちゃんが持って来ていたのは、発声練習に必要なプリントの類です。

_______________

飯野智子演劇生活30周年記念公演
大体2mm『迷惑』
作:藤原達郎 演出:藤本瑞樹

日程:6月29日(土)14:00/18:00★パーティー回
     30日(日)14:00
会場:J:COM北九州芸術劇場 小劇場

詳細はこちら
https://about2mm.com/meiwaku/

クラウドファンディングも実施中です。
https://motion-gallery.net/projects/about2mm